R.5年9月20日掲載 (2023年)

    【トカゲの尻尾】

  

   陽射しが少し秋めいたので、日当たりのよいところに出てきたニホントカゲ
   (かつらぎ町で撮影)
 
  今回の写真は、石竜子(トカゲ)。漢字表記どおり、石の上で日光浴をしているニホントカゲです。
ニホントカゲの幼体時は、黒地に黄色いラインが入り、尾は鮮やかな青色。成体になると全身が茶褐色になります。
近年、遺伝子などの違いから、西日本に生息するニホントカゲと、東日本に分布するヒガシニホントカゲに分類されました。
しかし、両種を外見から識別するのは難しいうえに、和歌山県は生息境界区域で双方とも存在するため、
写したトカゲはヒガシニホントカゲなのかもしれません。このように生息場所や行動範囲が限定されているニホントカゲに対して、
日本各地の庭などでよく見かけるトカゲはカナヘビです。カナヘビはニホントカゲのツルツルした肌感とは違い、皮膚がガサガとしています。
経験則ながら、皮膚が滑らないカナヘビのほうがニホントカゲより捕まえやすいように思います。
さらに、ニホントカゲは攻撃心が旺盛で、捉えた途端に指に噛みついてきますが、片やカナヘビに指を噛まれた記憶はありません。
 ちなみに以前、うちのキジネコが捕まえて私のもとに持ってきたトカゲはカナヘビでした。獲物として狙いやすいことを心得ていたのでしょう。
今は屋内で暮らしているので、戦利品を運んでくることはありませんが、トカゲをくわえたドヤ顔は忘れられません。
あれは狩りができたことを自慢していたのか、私に拝領せよと命じていたのか、ネコの真意は何だったのでしょう。
 ネコとトカゲといえば、昭和の俳人、加藤楸邨がこのような句を読んでいます。
「ひとり跳ねをり猫に切られて蜥蜴(とかげ)の尾 」。このネコは狩りに失敗したのです。
トカゲは尻尾を自ら切って逃げ、切り離された尾は敵の注意を惹くために動き回る。その尾をネコは睨みつつも、やがて諦めて去っていく。
‘’おかしみ‘’と‘’あわれみ‘’を読み手に伝える楸邨らしい句です。逃げたトカゲの尾はおそらく再生したことでしょう。
 このトカゲの再生尾を題材にした小説を最近、読みまし た。清水カルマの『禁じられた遊び』です。
往年のフランス映画『禁じられた遊び』とは異なる作品ですが、戦災孤児の少女たちが小動物の亡骸を土に埋めて祈りを捧げる映画のシーンと
通じる部分もあります。では、小説はどんなお話かと言いますと・・・
伊原直人は、庭付き一戸建てのマイホームを購入して、妻の美雪、息子の春翔と幸せに暮らしていた。
ある日、直人は「トカゲの尻尾からもトカゲがはえてくる」と春翔に冗談を言う。そのためには尻尾を土に埋めて、呪文を唱えなければいけない、と。
その嘘を息子は信じてしまう。数か月後、美雪が交通事故で亡くなり、春翔は母親を生き返らせるため、美雪の指を庭に埋め、毎日熱心に呪文を唱える。
一方、直人の元同僚でかつて美雪から直人との不倫を疑われていた倉沢比呂子はビデオ記者に転身して活躍していたが、周囲で奇怪な出来事が
次々に起こり始める。相次ぐ異常現象に悩まされた比呂子は原因を探るために直人の家を訪ね、そこで異様な光景を目にして・・・というような内容です。
この小説は、『リング』などのホラー映画を制作した中田秀夫監督によって映画化されています。
恐ろしい姿で甦った美雪を中田監督がどのように描いているのかと、観に行ってきました。
ほぼ400ページの小説を110分の映画にしているのですから、割愛している事柄が多く、設定の変更もあり、違和感は覚えます。
しかしながら、視覚と聴覚に迫りくるホラーは、書き物とは違う面白さもあります。
ラストのどんでん返しが不自然にならぬようにオリジナルストーリーを加えているのは、中田監督の手腕でしょう。
原作と映画の両方をお楽しみいただける作品です。
 


R.5年8月23日掲載 (2023年)


    【犬を抱きしめて】

  

   昭和42年、和歌山市高松の自宅前にて。私と愛犬。

  掲載した写真は、いつもと趣向を変えて、56年前の夏のひとコマ。小学校2年生の私と愛犬のエリです。エリは紀州犬でとても賢い子でした。
現在飼っている柴犬おじいさんも紀州犬エリも飼い主に対しては忠実で、真面目な気質。これは日本犬の特徴なのでしょう。
国の天然記念物にも指定されている日本犬の魅力を先日、孫たちに話していたら、「エリの写真を見たい」と言い出したので、
久しぶりに古いアルバムを開きました。今回、この写真を選んだのは、それがきっかけです。
 最近はスマホやデジカメで手軽に写真を撮って、データで保存するのが当たり前。昔のように写真を現像してアルバムを作る人は多くないかもしれません。
でも、アルバムは見返す時にとても便利。このお盆休みにもきっと、親族が集まり、アルバムを眺めて思い出話に花を咲かせた方もいるでしょう。
誰でもいつでも、そして後々いつまでも往時を偲ぶことができるカタチに残しておくことは大切だと思います。
 ところで、この写真の私のポーズを見て、ふと思い出した俳句がありました。
尾崎放哉の句「犬をかかへたわが肌には毛が無い」です。放哉は自由律俳句を代表する俳人。
名句「咳をしても一人」には、極貧の中、漂泊の旅を続けた放哉の孤独感が込められています。
この犬の句もまた、ありのままを詠みつつも、毛に覆われた犬のぬくもりを求めている自分の肌の冷たさに、
言いようのない淋しさや哀しみを感じているのが伝わってきます。
人とうまく付き合えない放哉ゆえ、おそらくすがるようにして犬を抱きしめたのでしょう。
 そういえば、先日読んだ小説にもこんなシーンがありました。「持っていたリードの先を下に置き、両ひざをついてマジック(犬の名)を抱きしめた。
確かなぬくもりと鼓動が伝わってきた」。犬との別れの場面です。この小説は山本甲士の『迷犬マジック』
春・夏・秋・冬の章立てで、季節ごとに主人公は変わります。つまり連作短編の形式。
どんなお話かと言いますと・・・・家族から認知症を疑われている高齢男性、夜の商店街で路上ライブをする売れないミュージシャン、
理髪店を営むメタボ気味の独身中年男性、仕事に挫折して独り暮らしを始めたアラサー女子。
彼らのもとにある日、迷い犬がふらりと現れる。赤い首輪に‘’マジック‘’とだけ書かれた黒柴系の犬。
4人はそれぞれ飼い主を探すも見つからず、マジックを預かることにする。
半ば人生を諦めていた彼らの日々だったが、マジックと暮らし始めてから小さな奇跡が訪れて・・・というような内容です。
どこから来てどこへ行くのかわからないミステリアスな犬ですが、人の言葉を話すわけでもなく所作も基本的には普通の犬。
なのに周囲の人を幸せに導いてくれるのはなぜか。作者の物語づくりの巧さを感じます。
 何かに迷っている読者の元に、マジックはふらりと現れるかもしれません。
いえ、マジックでなくても、思わず犬を抱擁したくなるような優しさをもらえる小説。
そして、前向きに生きるためのヒントを与えてくれる作品です。
 
 
 

R.5年7月19日掲載 (2023年) 

    
【夏の思い出をよきものに】

  

  【和歌山市、宇須井原神社の夏祭り(7月16日の本祭に参拝)】
 
  今回の写真は、宇須井原神社の夏祭りの様子です。出し物で盛り上げて下さっているのは、芸人さんではなく一般の方々。
なので、獅子の被り物も手作り感があって、見ていると心がほっこりしました。
獅子舞ってお正月のものでは?と思われるかもしれませんが、お正月だけでなく祭りや祝い事の席でも行われます。
実際大正期のホトトギス派を代表する俳人、村上鬼城はこのような句を詠んでいます。
「大雨に獅子を振りこむ祭かな」。 ‘’祭‘’は夏の季語。他の季節の場合は‘’春祭‘’‘’秋祭‘’などの形で季語に使います。
つまり、この句からも夏祭りで獅子舞が奉納されていることがわかるのです。
殊に夏祭りは疫病退散や厄除けを目的としていますから、邪気を祓う意味を持つこの民俗芸能はふさわしいのではないでしょうか。
 獅子舞の他にも様々な演じ物が披露され、くじ引きや夜店などに多くの人が興じる中、家族の笑顔を撮影しようとスマホやカメラを構える姿がそこかしこに。
きっと夏の思い出になる微笑ましい写真が撮れたことでしょう。
 そういえば、先日読んだ小説のタイトルが『家族写真』でした。荻原浩の短編集で、いろいろな家族の思いを綴った七作品が収録されています。
本の表題作でもある『家族写真』は、どんなお話かと言いますと・・・
瀬戸内海沿岸の町で古くからの写真館を営む父に反発し、プロのカメラマンを目指して上京した春太は、カメラアシスタントの仕事をしているものの充実感がない。
そんな折、父が倒れたという連絡を受け、しぶしぶ故郷へ帰る。駆け落ち同然で飛び出した姉も恋人とともに、妹が手伝っている写真館へ戻ってくる。
デジタルの時代にフィルムカメラを使っている父親を相変わらずの頑固者と思いつつも、病気の父の代わりに春太はその大判カメラで七五三の写真を撮る。
そして、インパクトやアート性とは無縁の家族写真の持つ意味に気づき・・・というような内容です。
ほろりとさせられて、そしてまたくすりと笑わせるストーリー。所収の短編はすべて心温まる小説ばかりです。
ただ、その中で一つだけミステリー要素を含む異質の作品があります。それは『プラスチック・ファミリー』。
主人公は、廃品置き場で、好きだった女性にそっくりのマネキンに出会い、それを持ち帰って妻との仮想生活を始めます。
さらに、子供マネキンをネット購入し、三人家族となって暮らすのです。何となく怪しい方向へ展開しそうで、
読みながら頭の中で重ね合わせたのは、江戸川乱歩の『人でなしの恋』。人形に恋をした男の話です。
この小説の最後は妻の悋気によって悲惨な結末を迎えるのですが、荻原氏の描いたラストは乱歩作品と真逆でした。
物語の終盤で人形たちとドライブに出かけた主人公は、「二十二年前の夏には鈍色だった海は、今日の晴れ空を映しこんで、青く輝いている」と胸の内で呟きます。
なぜこのような心境になったのかは、ネタバレゆえに割愛しますが、主人公は『家族写真』の春太と同じく、大切なものが何かを知り、人生を歩み出すのです。
 家族の絆をテーマにした名作揃い。お盆を前に皆が集う夏だからこそ、お読みいただければと思います。

 

R.5年6月21日掲載 (2023年)   
       
    【文学の背景には】

  

   昔からツバメの巣は幸運の象徴。商売繁盛や子宝のご利益があるとか。  
 
 今回の写真は、和歌山市内の民家の軒下で見つけたツバメの子どもたちです。
このような人の気配がある場所にツバメが巣を作るのは、天敵であるカラスやヘビが近づいて来ないからだとか。
その習性のおかげで、私たちは可愛いツバメの成長を観察することができるわけです。
俳人、加藤楸邨もこのような句を詠んでいます。「口見えて 世のはじまりの 燕の子」。ツバメの子が大きな口を開けて餌をねだっている。
この子たちの一生は始まったばかりだなぁ、と。‘’燕‘’は春の季語ですが、‘’燕の子‘’は夏の季語になります。
楸邨の代表作で、教科書によく載っているのは「雉子の眸のかうかうとして売られけり」ですよね。
この句が詠まれたのは1945年。終戦直後の闇市での光景です。
鋭い気迫に満ちた言葉遣いには、戦禍の哀しみ、戦争への怒りが感じられます。
一方、約30年後の作品であるツバメの句には、これからの明るい希望が感じ取れます。高度成長期を経て国民が豊かになったからでしょうか。
どちらも野鳥に焦点を置きながら、作品世界が異なるのは、社会背景が影響を与えているのだと思います。
 ところで、ツバメの子は一羽当り一日に100匹ほどの虫を食べるそうです。
写真のツバメは4羽ですから、 親鳥は一日に数百回も餌を運ばねばなりません。朝から晩まで空を飛び、頑張って世話をしているのです。
それに対して、人間の子育てはどうなのでしょう。そのことを考えさせられる小説を先日読みました。
深谷忠記の『殺人者』です。どんなお話かと言いますと・・・、
子どもを自宅に数日間置き去りにした母親が保護責任者遺棄で有罪判決を受けた。
その子どもは少し前まで児童養護施設「愛の郷学園」に預けられており、事件が起こったのは、そこから引き取って間もなくのことだった。
その後、背中に‘’殺人者には死を!‘’と書かれた紙が貼られた変死体が連続して見つかる。しかし、被害者たちは殺人を犯していない。
ただ、彼らはいずれも娘や息子や孫を虐待しており、その子どもたちが「愛の郷学園」に一時期入所していたことを主人公の宮川刑事は突き止める。
だが、その事実に至っても捜査は混迷を深めていく。いったい犯人は?殺意の真相は?というような内容です。
‘’殺人者”が何を意味するのかは、謎のまま展開していきますが、事件と繋がった時、タイトルに込められた意図がわかります。
 年々、児童虐待の相談件数は増加傾向にあります。虐待の対象となる子どもの数は減少しているのですから、反比例の関係なのです。
これは、事案を把握する社会システムが整ってきたという側面もあるのでしょうが、やはり憂うべき趨勢であることは間違いありません。
今年、傘寿を迎えるベテラン推理作家、深谷氏も現代の動向を憂慮して創作したのでしょう。
前述の楸邨もそうでしたが、文学作品は時代背景と大きく関わっているのです。
 


R.5年5月17日掲載 (2023年)
    
    【シャクヤクは美人の代名詞】

  

   
   和歌山城の満開時のシャクヤクの花。
   切り花が出回るのも今の時期限定。
 
 今回の写真は和歌山城二の丸庭園沿いの道に咲くシャクヤクの花です。
シャクヤクは5月中旬あたりが見頃なのですが、今年はサクラやツツジと同様に開花が早かったようです。地球温暖化の影響でしょうか。
先週再び、同地を訪れた時は殆ど散っていました。ふと頭に浮かんだのが、山口青邨の俳句「芍薬や雨にくづれて八方に 」。
もしかしたら、数日前の大雨に打たれたせいなのかもしれません。
並植されているボタンの花も姿を消していましたが、ボタンのほうが開花時期が早いので、これは自然の理ですね。
 ご存じのようにシャクヤクとボタンは見た目がとてもよく似ています。
「芍薬を牡丹と思ひ誤りぬ」の句を詠んだのは、高名な物理学者でありながら、随筆家・俳人でもある寺田寅彦です。
今流行の‘’二刀流‘’の偉人ですら見紛うほどの華容なのです。ただ、全体像を見ると、芍薬は草で、まっすぐに伸びた茎の先に花を咲かせています。
ボタンは、樹木で幹があり、枝分かれして横に広がるように花を咲かせます。
シャクヤクはすらりとした立ち姿、ボタンは艶麗な身幅。この特徴から「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」ということわざが生まれたのでしょう。
ちなみにユリは風に揺れる姿が美しいことからの連想でしょう。
この成句がいつごろ生まれたのかは不明ですが、江戸中期の洒落本『無論里(ろんのないさと)問答』に「踊の歌にいはく・・・」とありますから、
舞踏歌から誕生したのかもしれません。その後、寛永年間の『譬喩尽(たとえづくし)』という辞典には、美人の形容として掲載されています。
 ところで、美人といえば、先日読んだ小説が、藤崎翔の『逆転美人』でした。告白本型式の作品で手記と追記に分かれています。
どんなお話かと言いますと・・・・シングルマザーの香織は、娘の学校の教師に襲われた事件が報道されたのを機に、手記「逆転美人」を出版する。
飛び抜けた美人であることが災いして、幼い頃からイジメ、誘拐、詐欺など数々の被害に遭ってきたことを詳述し、事件の経緯を明かすが、
はたして真実なのか?やがて追記も出版されるが、その意図は・・・というような内容です。
ミステリーファンの私ゆえ、手記の各所に不自然な文章があることに気づきます。
これらは追記で伏線回収されるのですが、そこで真相をわかった気になってはダメ。最後まで読んで衝撃を受けました。
タイトルの『逆転』の意味がラストでようやく判明するのです。
本の帯の謳い文句「ミステリー史上初の伝説級トリック、紙の本でしかできない驚きの仕掛け」は、まさにその通り。
計算しつくされた空前のトリックです。これを書くにあたっては、大変な労力を要したことでしょう。感服します。
 前述のシャクヤクは、漢字表記に薬の字がある通り、古くから根が生薬として使用され、筋肉の懲りを和らげる効果があるのだとか。
この努力の賜物のような小説を書き上げた新鋭若手作家の藤崎氏に感謝と敬意を込めて、
初夏を彩るシャクヤクの花と肩こりをほぐす薬をプレゼントしようかしら。