R.6年2月21日掲載 (2024年) 【悪くも善くも】
![]() 紀美野町雨山水辺公園(雨山の郷)のアセビ(馬酔木)。 春を告げる花が鈴なりに咲いています。 今回の写真は、紀美野町で数日前に撮影したアセビです。 3月が最も見頃の花ですが、すでに薄紅色の真珠のような花がこぼれるように咲いていました。 先週は各地で記録的な暖かさとなり、関東や北陸では春一番が発表されました。 やはり例年より春の訪れが早いのかもしれません。 ところで、この花の呼び方はアセビなのかアシビなのか迷いませんか。 植物図鑑に記載されている樹種名は‘’アセビ‘’。短歌雑誌や俳句雑誌の『馬酔木』は‘’アシビ‘’。 どちらが一般的なのか。日本原産の花木ですから、古くから呼び名はあったはずだと調べていると、 紀伊風土記の丘の万葉歌碑にこのように書かれているのを見つけました。 「磯影の見ゆる池水照るまでに咲けるあしびの散らまく惜しも」さらに歌碑の端には「あしび=アセビ」と。 どうやら万葉時代はアシビと呼ばれていたようです。 それが転訛してアセビとなり、時代とともに容認されていくうちに、むしろアセビの方が主流になって、 図鑑に堂々と載るまでになったのでしょう。 周知のことと思いますが、馬酔木という表記は、馬が誤って葉を食べると酔ったような状態になることから当てられた漢字です。 そういえば、先日『悪の芽』という小説を詠みました。貫井徳郎のミステリー作品です。 どんなお話かといいますと・・・・ ラストシーン。駅のホームでの出来事の後、安達は「人間の心には必ず、善の芽が宿っているはずだ」と確信します。 そこで最後に、水原秋桜子の句をひとつ。「来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり」。
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R.6年1月24日掲載 (2024年)
【龍の如くにならずとも】
横5センチ縦4センチの自然石に描いた龍の絵と、開花した我が家の白梅。 今回の写真は新年恒例の干支の石絵と庭に咲いた梅の花です。この梅は龍がうねったような独特の樹形をしているので
‘’雲龍梅‘’と名づけられています。縁起のよい木だというので、南部梅林の売店で数年前に購入しました。古木のような風情を
枝ぶりに漂わせつつも、早咲きの品種なので、新春を寿ぐように咲き始めます。その姿に内なる生命力を感じる花木です。
そういえば、正岡子規がこのような句を詠んでいます。「白梅の龍になるまで咲きにけり」この梅も雲龍梅だったのかもしれません。
白梅が満開になり、黒くうねった幹が、雲を昇っていく龍のように見えたのでしょう。雲を突き抜けて天に向かって飛び立つ龍。
イメージは広がりますが、いざ小石に描くとなると、とてつもなくも難しい。干支の中でもダントツの難易度です。できれば愛嬌の
ある龍にしたいと思ったものの、うまくいかない。丸くデフォルメすれば可愛くなるかと思いきや、何やらツチノコのようになってしまう。
龍は想像上の生き物で実物を見たことがないから無理もないか。あれ?ツチノコも見たことがないから、この比喩は矛盾していますね。
早い話が画才の限界なのでしょう。
ちなみに、絵の名人となれば、さまざまな逸話があります。中国南北朝時代の張という画家は龍の絵を描き、最後に睛(ひとみ)を
描き入れた途端、龍が昇天してしまったとか。これは「画竜点晴」という言葉が生まれた故事です。同じような話は日本にも。
知恩院にある狩野信政が描いた襖絵は、菊の上を飛ぶ数羽の雀が描かれていたのですが、あまりにも見事な出来栄えだったので、
雀が飛び去ってしまったそうです。
こんな伝説が生まれる名人になるのは稀だとしても、画家になりたいと思う人は少なくないのでは。先日読んだ小説にも、日本画家に
なって第二の人生をやり直そうとした男の話がありました。それは姉小路祐の『再雇用警察官』です。どんなストーリーかと言いますと・・・
大阪府警が再雇用警察官制度を開始。給料激減、待遇曖昧、銃も貸与されない。しかし、定年を迎えた安治川信繁は再雇用
警察官となり、新設の生活安全部消息対応室に配属された。事件性があるかどうかわからぬ行方不明者を調査する部署。
ここに初めて失踪相談依頼人が来る。夫の本間雅史(49)が退職金二千万を所持したまま愛人とともに蒸発したので探して
ほしい、と。そのような事情なら自発的蒸発であると処理されたが、やがて、本間の保険証を持つ別人の刺殺体が発見される。さらに、
この男の指紋が、強殺事件の重要参考人・下河内のものと一致する。本間の足取りを追っていくと、長澤一郎というもう一人の
行方不明者も浮上。本間、下河内、長澤はどう繋がっているのか・・・というような内容です。本間は失踪後、画家を志し絵画教室に
通っていたのですが、その講師の言葉がシビアです。「(本間さんは)絵の創作で豊かな生活ができると思っていたのですが、そんな
人間はほんの一握り、いやひとつまみですね
。上手いのは上手い。でもあくまでそれは素人の上手さなんです」
この現実に絶望したのか、
あるいは他殺か、後に本間は縊死。平凡な失踪が、思いもよらない複雑な事件になっていきますが、安治川は長年培った人脈と勘で
謎を解明するのです。本間、下河内、長澤は偽りと欲望によって、第二の人生を失敗してしまいましたが、安治川は対照的。
地味ながらも正直で真摯。人間関係を大切にして物事に向き合う人物です。安治川は小説のラストでこう呟きます。「この歳になって
また改めて一つ勉強がでけた。現役というのは、ほんまありがたい」雲を得て天に昇る龍でなくてもいい。前向きな生き方を教えてくれる
作品です。
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R.5年12月20日掲載 (2023年) 【まめに働けば】
![]() 枝や鞘をつけたままの黒豆を稲木にかけて天日干し。
(かつらぎ町天野の里にて) 今回の写真は天野の里、黒豆を天日干している風景です。この地の黒豆は大粒で美味しいのです。
以前、散策途中にお声をかけて下さった農家の方が自宅宛てに黒豆を送って下さいました。それを煮て初めて
食べた時、感動しました。皮は色艶がよくて柔らかく、豆全体がもっちりとした食感。濃厚なコクと旨味があり、
香りもいい。やはり、時短の機械乾燥ではなく、ほぼ一か月の間、自然の風にあて、太陽をたっぷり浴びさせる
自然乾燥だからこそ、あの風味が生まれるのでしょう。
言うまでもなく、黒豆はおせち料理の定番ですが、関東と関西では調理方法が違うようです。関東では「しわが
寄るまで長生きできるように」とあえて表面にしわを寄せて仕上げるのだとか。でも、関西では、しわにならないように
ふっくらと煮上げますよね。これは艶やかな黒豆に不老長寿の願いを託しているのです。私としては後者を支持し
ますが、いずれにせよ、「まめ」という言葉には「健康、丈夫」という意味があるので、関東も関西も、元気に暮らし
たいという思いは共通しています。
また、‘’忠実‘’と書いて‘’まめ‘’と読むように、「まめ」は「誠実で真面目」という意味もあります。なので、祝い肴の
黒豆には、まめに働けることを願う気持ちも込められているのです。その前提には、骨身を惜しまぬことへの誓いが
あるはず。昔の日本人は働き者だったのですね。現代人はどうでしょうか?仕事と生活のバランスがとれた状態なら、
まめに働きたいでしょうけれど。
そういえば、先日読んだ物語の主人公は、誠実に一所懸命に仕事に取り組む公務員。彼の労苦が思わぬ方向に
進んでしまうストーリーでした。その小説とは、米澤穂信の『Iの悲劇』です。どんなお話かと言いますと・・・
住人がいなくなった山間の集落・簑石を再生させるため、Iターン促進プロジェクトが始動した。市役所の「甦り課」で
移住者たちの支援を担当することになった万願寺は真面目に仕事に取り組むが、課長の西野はやる気なし。
新人の観山も頼りない。さらに、公募で集まってきたIターン者たちは、次々とトラブルに見舞われ、一人また一人と
簑石を去っていく。まるで見えない何かに追い出されるかのように。いったい何が・・というような内容です。
タイトルを見て、エラリー・クイーンの『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』や夏樹静子の『Wの悲劇』が頭に浮かんだ方も
おられるでしょう。この『Iの悲劇』は、それら代表的推理小説へのオマージュとも言えます。また、小説のラストの一文が
「そして、誰もいなくなってしまった」です。この末文は、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』へのリスペクトを感じます。
つまり、この作品は過疎地域を抱える地方の現状や行政の現場、そこに隠された謎を描く社会派ミステリーと思わせつつも、
実際のところは、エラリー・クイーンたちの名作と同じ正統派ミステリーなのです。緻密に組み立てられた構成で最後に
どんでん返しを用意し、読者を驚かせる。 各章ごとに発生する住人たちのトラブルの謎は、それぞれの章の終わりで
解決するものの、そこに伏線が張られていたことに最終章で気づかされる。移住者たちのトラブルは、言わばジグゾーパズルの
ピース。それがきっちりとはまった時、真相という絵が見える。まさに本格ミステリーの定石を踏んでいます。
移住者たちのために東奔西走し、忠実(まめ)に働いてきた万願寺は、最後の場面で、簑石の里を眺めながら「この里の
ために自分が出来ることはもう何もない」と心の中で語ります。このシーンの十二月の山里の情景描写が美しく、今の季節感と
通じます。それに、米澤氏お得意の「人の死なないミステリー」ですから、今年の締めくくりの一冊にいかがでしょうか。
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R.5年11月15日掲載 (2023年) 【卯年もあとひと月半】 ![]() 月兎耳(つきとじ)。月光を浴びたウサギの耳のような多肉植物。 (和歌山市の園芸センターにて撮影)
今回の写真は、ふらりと立ち寄った和歌山市大垣内の園芸センターで撮影した月兎耳(つきとじ)。
その名の通り、ウサギの耳のような形をした多肉植物です。 ふくらみのある葉には白い細やかな産毛があり、‘’もふもふ‘‘’動物のような肌ざわり。可愛らしいので早速購入しました。 買い物を終え、温室から出ると、外は寒風。この日11日は近畿地方で木枯し1号が吹いたのです。 いよいよ冬の到来。北風を受けて光る月兎耳を見つめながら、卯年もあとひと月半なのだと実感しました。 そして、ウサギの耳と風の繋がりから、ふと思い出したのが、加藤楸邨の俳句。「吹越(ふっこし)に大きな耳の兎かな」
‘’吹越‘’とは風花、つまり晴天時に花びらが舞うようにちらつく雪のことです。
句中のウサギは青い空を見上げ、風に舞う雪の音なき音を大きな耳で聞いているのでしょう。その光景は凛とした神々しさを感じさせます。 確かに、ウサギは日本神話の中で神様の使いとして登場しますから神聖な存在なのです。
句の空気感と通じます。
さらに言えば、冬の句ながら明るい詩心が漂っているのは、ウサギが瑞祥の動物とされているからでしょう。
優しく温厚なイメージは家内安全、跳ねる姿は飛躍・向上、子だくさんは子孫繁栄・豊穣。そのような意味合いで、縁起がいいのです。 なので、ウサギの置物を飾っている家も多いと思います。 しかしながら、生きているウサギを遺品のひとつとして突然引き取る羽目になったら、どうでしょうか。幸運が訪れたと思いますか。
生き物に対しては、人それぞれですが、最近読んだ物語の主人公は困り果てます。 その小説とは垣谷美雨の『姑の遺品整理は、迷惑です』。 どんなお話かと言いますと・・・郊外の団地で一人暮らしをしていた姑が、脳梗塞で急死する。
嫁の望登子は、業者に頼むとお金がかかるため自力で遺品整理を始める。しかし、予想以上の物の多さに愕然とする。 大きな家具や古い家電、おびただしい食器類、至る所にぎっしりと詰め込まれた物。 おまけに太りすぎの大きなウサギまで飼っていたことを知り、途方に暮れてしまう。 残業の多い夫は頼りにならず、自宅から片道1時間半かけて通いながらの分別とゴミ捨ての日々。 無駄を溜め込む姑を恨めしく思う望登子だったが、作業を進めるうちに意外なことが・・・というような内容です。 ユーモア小説ですが、誰かが部屋に忍び込んでいる形跡があったり、ウサギが何やらワケアリだったりとミステリータッチなところもあります。 それらの謎は、姑の本当の顔が見えてきた時に解明します。主人公は遺品整理を通して、姑や亡き実母の生き方を知っていくのです。 彼女がどのような事実を知るのかはネタバレになるので書けませんが、小説のラストの一文だけ紹介しておきましょう。 やっとのことで遺品整理を終えた主人公は、心の中でこう思うのです。
「望登子は幸せ者です」と。やはりウサギは幸福を運んだようですね。 卯年の年内にぜひ読んでいただきたい作品です。向寒の候、温かい気持ちになれますから。
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R.5年10月18日掲載 (2023年) 【声の主は】
![]() 手の上でじっとしているヤブキリ。自宅にて撮影。 今回の写真は灯火を慕って家の中に入ってきたヤブキリです。
姿かたちがウマオイにそっくりなので「馬追虫の髭のそよろに来る秋は・・・」と長塚節の有名な短歌を口ずさみつつ、 弾む気持ちで手に載せてみると、あれ?ウマオイにしては大きい。写った手首との比較でもわかるように、 体長5センチ以上あるのです。ウマオイは、3センチ前後。さらに、ウマオイなら頭の褐色部が複眼まで達しているはず。 でも、この訪客の目の上は黄緑色。よくよく考えてみれば、童謡「虫の声」の歌詞にもなっている「スイッチョン」 という 澄んだ張りのある音色を自宅で耳にしたことはなく、庭から聞こえてくるのは「ジーッジリリリリリ」という少々地味ながら耳なじんだ秋の調べ。 あの声の主であることに間違いなさそうで、これはヤブキリだと判断しました。 それにしても、ヤブキリは警戒心が強くないようです。殆どのバッタは人が近づくや否や逃げ出しますが、ヤブキリは平然と構えたまま。
臆することなく私の手を掴んだ前脚にはトゲがあり、それを武器にしてカマキリさえも捕食するので「日本で最強のバッタ」と 評価されている昆虫だとか。なるほど、この度胸の据わり具合を見ると納得できますね。
ちなみに、小林一茶がこのような句を詠んでいます。
「きりぎりす隣に居ても聞へけり」人が真横に座っているにも関わらず鳴き続けている。 堂々たるものです。キリギリスは人の気配を感じると鳴き止む事が多いので、これはキリギリスの仲間のヤブキリだった のではないでしょうか。一茶の隣にいたのは、キリギリスなのかヤブキリなのか、今となっては、事実はまさしく‘’薮の中‘’ですが。
また、一茶は他にも「こほろぎのころころ一人笑ひ哉」など虫の音を詠んだ句を多く残しています。これは日本人ならではの感性です。
虫の声が耳に届くと、秋を感じて風情を覚えるでしょう。ところが、もし誰かわからぬ女の声が聞こえたとしたら・・・。
そんなストーリーの小説を先日、読みました。 誉田哲也のミステリー『もう、聞こえない 』です。どんなお話かと言いますと・・・・雑誌編集者、中西雪実のマンションの部屋で男性が殺害された。 加害者である雪実は自ら一一〇番通報し、傷害致死容疑で逮捕される。 雪実は罪を素直に認めていたので、一件落着かと警部補の武脇は思っていた。しかし、取り調べの途中から雪実が「女の人の
声が聞こえるんです」と言い始める。これは要精神鑑定案件かと武脇は身構える。さらに捜査を進めても、被害男性の身元もわからず、犯行動機も判明しない。
そもそも声とは何なのか、誰の声なのか?そこに十四年前の未解決殺人事件が浮上して・・・というような内容です。 物語の始まりは、誉田氏お得意の本格的な警察小説。 読み進める内に、警察の実態を描くのではなく、叙述トリックを用いた推理モノだなと思います。 その一方で、これはシリアスではなくホラーなのかもしれない、コミカルな語りも入るからユーモア小説かもしれない、と翻弄されます。 この作品は誉田哲也の新たなチャレンジでしょう。たとえるならば‘’虫の合唱‘’。 種類の異なる虫がさまざまな音色で鳴いても、音程や強弱、リズムが心地よく調和していますよね。 同じように、この小説も多彩な要素、異なるジャンルを構成の妙で上手くまとめているのです。ただし、うっとりと鑑賞するというわけにはいきません。 伏線に次ぐ伏線で物語は意外な方向へ進んでいきますから、ご注意を。 |