H.27年5月20日掲載

【アザミのごとくトゲあれば】 

 今回の写真は海南市の亀池公園にたくさん咲いていたアザミ。秋に咲く花の代表ですが、初夏に咲くアザミもあるのです。
アザミは意外に種類が多く、日本には50種以上、自生しているとか。
その中で、ノアザミだけが、珍しいことに今の時期に花をつけます。
なので、アザミの仲間はいろいろあるものの、5月に撮影したこの写真のアザミは、ノアザミだと区別できるわけです。
 野に咲くアザミは、地味だけれど美しい花。でも、あまり愛でられません。
それは、あのトゲのせいでしょう。ちょっと触れただけでも、「痛っ」と手を引っ込めてしまう。
バラのトゲとは、異なるチクチクした痛み。バラの硬いトゲを「陽」とするなら、アザミのしなやかなトゲはどこか「陰」のイメージなのです。
 その感覚をうまく歌詞に取り入れたのが、作詞家であり、小説家でもある阿久悠のヒット曲
『あざみのごとく棘(とげ)あれば』という歌です。1978年に放送されたテレビドラマ『横溝正史シリーズU』のエンディングテーマ。
「あなたの紅いくちびるは いつから歌を忘れたか」という歌いだしとともに、横溝ワールドの映像が流れ、
原作の金田一耕助に印象がそっくりの古谷一行が自転車に乗って走り抜ける。
当時、視聴率が40パーセント近くあったというのですから、超人気ドラマです。
当然ながら、ご記憶の方も多いでしょうが、改めて、後半の歌詞を書いてみます。
「あざみの如く棘あれば 悲しい心 さらさずに この世を生きて行けようが 
はかない花は罪を負う」。本来、アザミがトゲを持っているのは、身を守り、生き抜くため。
なのに、トゲを持ちながらも、強く生き抜けず、罪をおかすとは、実にはかない花だ・・・という意味に解せます。
実際、金田一シリーズの犯人は、気丈でありながら、弱さと哀しみを露見させてしまう女性というパターンがとても多い。
おそらく、阿久悠は、横溝作品を完全読破して、この歌詞を書いたのだろうと思います。
それに、アザミのトゲは、そもそも相手を攻撃するためのものではなく、自然のたくみな防護機能である、
といった植物学的観点からも歌詞は外れていません。
 やはり阿久悠ほどの傑出した人物は並々ならぬ勉強家なんでしょうね。
       
                        

                         初夏に咲くノアザミ

H.27年4月15日掲載

【犬だってお花見】

 今回の写真は、紀美野町の「花いちばんKOIBITO広場」で撮影した一枚。
咲き乱れる花々に囲まれ、我が家の愛犬が陶然としています。お花見を楽しむのは、人間だけではないようです。
この風景は、犬の目にどのように映っているのでしょうか。
ちなみに、犬の嗅覚は人の1億倍まで感知できるのだそうです。
ただし、臭気の種類によって、比較倍率は異なるらしく、たとえばスミレの花なら、人の3000倍ほど匂うのだとか。
ということは、これだけの花に囲まれていたら、その芳香はいかばかりか。もしかしたら、犬のお花見は、お「鼻見」なのかもしれません。
はてさて、お花見をしながら、どんな感想を抱いているのか、犬に聞いてみたくなりました。
そんな時、まっさきに頭に思い浮かぶのが、安倍晴明の「アカザの杖」。
この杖は、安倍晴明の母であるキツネが信太の森へ帰っていく時に、晴明に残した形見の品。
その杖を耳に当てると、動物の使う言葉が聞き取れる。伝説の優れモノです。
他に、動物の言葉がわかる道具として、世界的に有名なのが「ソロモンの指輪」。古代イスラエルの王であったソロモンは、
大天使ミカエルから授かったその指輪を用いて、ありとあらゆる動植物と話をすることができたそうです。
この指輪をヒントにしたミステリーの傑作が道尾秀介の作品、『ソロモンの指輪』。あらすじを簡単に書きますと・・・
主人公の秋内たちクラスメイト4人は、大学で教わっている助教授のひとり息子・陽介の事故の瞬間に偶然居合わせる。
陽介は愛犬の散歩中に、突然走り出した犬にひきずられ、トラックにはねられて亡くなったのだ。
その現場での友人の言動に疑問を感じた秋内は、動物生態学に詳しい間宮助教授のもとへ相談に行く。
犬はなぜ暴走したのか?陽介の死の真相は?
やがて、予想不可能の結末が・・・、というようなお話です。
道尾秀介の巧みなどんでん返しには、毎度、驚かされます。騙されます。犬の習性を生かしたトリックになっていることや、
さまざまな動物に関するネタがちりばめられている点も興味深い作品です。
作中で、主人公は「事の真相は犬のオビーにしかわからないのだ。
ソロモンの指輪があれば」と呟きます。言うまでもなく、タイトルを表す一言。
確かに、私たち人間は、動物たちの話す言葉を理解できません。でも、喜怒哀楽をともに感じることなら、できるはず。
だって、犬もお花見をするんですから。

                        

                         春の花に囲まれ、うっとりとする我が家の犬。

                           

H.27年3月18日掲載

【ヒバリと春愁】

 今回の写真は春の季語、ヒバリ。養翠園の近くで撮影しました。
ヒバリは後頭の短い冠羽が印象的ですが、メスは写真のように冠羽をあまり立てません。
オスだって、いつも頭の毛を逆立てているわけではないのです。なので、ヒバリと気づかず、見過ごしてしまうかもしれませんね。
もっとも、冠羽が立っていようとなかろうと、今の子どもたちは、ヒバリそのものを知らないのではないでしょうか。
かつては、のどかな田園で明るいさえずりを響かせて、空高く舞い上がっていくヒバリは、春の風物詩であり、身近な野鳥でした。
でも今は、ヒバリの好む草地が消失あるいは荒廃して、その姿を見かけることが少なくなくなってしまったのです。
このような生息環境になってしまったのは、近年のこと。
それまでは、春を告げる鳥として、ヒバリは古来より親しまれてきたのです。俳句や詩歌にもたくさん詠まれてきました。
たとえば、松尾芭蕉は「永き日も囀(さえずり)たらぬひばりかな」などの句を残しています。
短歌では、大伴家持が「うらうらに照れる春日に雲雀あがり心悲しもひとりし思へば」と詠んでいます。
ところで、なぜ、大伴家持は、おだやかな春の日にヒバリが上がっているのを見ながら、一人で物思いにふけり、悲しんでいたのでしょう。
この当時、藤原氏の勢力に押され、大伴家は没落しつつありましたから、そのことに関わる哀しみなのでしょうか。
いずれにせよ、春の憂い、つまり春愁に浸る作者の気持ちが、うまく表現された歌だと思います。
春愁といえば、池波正太郎の「剣客商売七 隠れ蓑」に、「春愁」という作品が収録されています。
主人公の老剣客・秋山小兵衛が、門弟の殺害事件の犯人に敵討ちをする物語です。
ただ、この事件の結末は、小兵衛の心に春愁をもたらすものだったのです。
それが何かは、ネタバレになるので、ここでは控えます。
もしかしたら、生息数が少なくなっているヒバリも、春愁を抱いているのかもしれません。
家持のように「心悲しもひとりし思えば」と、ヒバリが歌っていないか、
その声に私たちは耳を傾けるべきでしょうね             

                          

                            原っぱでエサをついばむヒバリ

                             
H.27年2月19日掲載

【フキノトウとハシリドコロ】

 今回の写真は有田川町の山中で見つけた春の訪れを告げるフキノトウ。フキのつぼみの花茎です。若草色をした
愛らしい姿に春のささやかな訪れを感じます。この写真を撮った数日前、観梅の帰途に立ち寄った「みなべうめ振興
館」でもフキノトウが売られていました。梅の木の根元に生えてくるのを摘み取ったそうです。早速、それを買い求めて、
夕食の天ぷらに。どこか懐かしさを覚える香りと、ほのかな苦味が美味しいですよね。
  フキノトウをはじめ、春の山菜は人気ですが、自分で採ってきたものを食べる場合には、注意が必要です。山菜と
間違えやすい毒草もありますから。
 たとえば、フキノトウと間違えるのは、ハシリドコロ。早春、地面から顔を出したばかりのハシリドコロの新芽は、
フキノトウとよく似ているのです。しかし、これを食べると錯乱状態になって走り回り、命を落とすこともあるのだとか。
江戸時代の平賀源内の著書『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』の中にも、「これを誤って食べると狂走して止らず、
故にハシリドコロと云う」という記述があります。ハシリドコロは、用法と用量を守れば薬として利用できるそうですから、
まさに諸刃の剣なのですね。
 さて、きわめて危険な毒草となると、当然ながら推理小説にも登場します。ハシリドコロを扱った作品は、松本清張の
『駆ける男』。あらすじを簡単に書きますと・・・瀬戸内海の由緒ある高級旅館に、北陸の成金である村川は妻と宿泊を
する。食事の後、女中頭を見た村川は、「あいつが、居た…」と放心したように言い、急勾配の長い渡り廊下をフロント
まで全速力で一気に駆け上がり、心臓麻痺で死亡してしまう。もともと村川は心臓が弱かった。だが、これは企てられ
た殺人。実は、ハシリドコロが料理の一品に使われていたのだ。犯人は誰か、動機は何か・・・というような話です。
おそらく清張は、見た目が紛らわしいハシリドコロという植物の存在を知り、このストーリーを思いついたのでしょう。
 春になると、山菜採りに行かれる方も多いと思いますが、くれぐれも山菜のことをよく学んでから、お出かけくださいね。

                      

                       有田川町の山で見つけたフキノトウ
                      
                              
H.27年1月21日掲載

【梅一輪一輪ほどの】

 連日の寒波の中、我が家の庭の梅が一輪だけ咲いたので、写真に撮りました。それが掲載した一枚です。
梅の便りが聞こえ始めるのはまだ少し先。だからこそ、なおさら、百花の魁(さきがけ)と呼ばれる梅にふさわしい一輪だなと思います。
梅一輪というフレーズで、すぐに頭に浮かぶのは、「梅一輪一輪ほどの暖かさ」という一句。
これは江戸時代の俳人、服部嵐雪が詠んだ有名な句です。
服部嵐雪は、松尾芭蕉の門人の中でも、とくにすぐれた弟子でした。穏健な作風で知られており、和歌山にも句碑があります。
その場所は、中辺路町。日本名水百選のひとつに選ばれた「野中の清水」のそばです。
伊勢と熊野に参詣した帰途に、嵐雪がそこで詠んだ句は、「すみかねて道まで出るか山清水」。
尽きることなく豊かに湧き出る清らかな水で、嵐雪はきっと喉を潤したのでしょうね。

 さて、話は先に挙げた句に戻りますが、実は、「梅一輪・・・」には、謎があるのです。
それは、この句は二通りの解釈ができるということ。
 まず、ひとつめの解釈は、「 厳しい寒さの中で、梅が一輪咲き、それを見るとわずかではあるが、一輪ほどの暖かさが感じられる」
という読み取り方です。
 そして、ふたつめの解釈は、「梅の花が一輪ずつ咲くにつれて、少しずつ暖かくなり、春に向かっていく」という読み取り方です。
どちらが正しいのでしょうか。私個人としては、前述のほうが季節感に合っているように思えます。
なぜなら、一輪咲くごとに春に向かっていくような気候にはまだ至ってませんから。
それに、ふたつめの解釈をするためには、「一輪ほどの暖かさ」ではなく「一輪ほどに暖かく」と詠むべきではないか、と。
素人考えですけれど・・・。
正解は謎のままですが、いずれにせよ、名句に変わりありません。梅一輪のけなげさが感じられます。
とはいえ、梅はしたたかな側面もあるようです。春の花の中でもっとも早く咲く理由は、実を確実に付けるためだとか。
競争相手のいない時期に咲くほうが有利だと梅は考えているのです。
この賢い強さこそが、寒さに勝つ所以なのでしょう。我々人間も梅の花に負けていられませんよ。新年も頑張らなければ。

                         

                          一輪だけ咲いた我が家の梅の花